文化の担い手

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パーマカルチャー実習コース10月。今回のテーマは身近な「植物資源と活用法」ということで、昼の部の講師に「摘み菜の会」代表の平谷けいこさんにお越しいただいた。
食べれる野草を覚えていくのには知っている人に毒草を教わり覚えるのがいい、ということをおっしゃっていた。それさえ覚えれば、あとは自分が実際に触れてみて感じ、少し味をみて嫌だなと思ったものは止めておく。自分自身の感覚を大切にすることが大切、という様なことを言っておられた。

昨日、今日を通して思ったことは、私たちの生活の中に実際どれだけ、自分の感覚を信頼し判断し行動する機会があるのかということ。私たちの生活の中で情報は沢山ある。その中で自分の趣向に合うものに基づき判断する。それはより良い判断とそれがもたらす結果を精度の高いものとするだろう。決してそれは悪いやり方ではない。
他方から聞いたことだが、平谷さんは、様々な書物に書かれているものを鵜呑みにするのではなく、それを実際に一つ一つ自分で試しているという。
その試したものからもたらされた経験という情報を皆と共有している。

今回、彼女と実習コースの皆と淡河の畑に立った。手前味噌かもしれないが、この畑も夏野菜と秋冬野菜が息づき、その恵みを頂けるようになり、調理をしていて、〜が欲しいなと思えばドアを開け一分後にはまな板の上にそれが乗っている。そんな自由自在さを味わえるようになってきた。その安心感は何物にも代えられないが。

彼女と共に畑に立つと、それまで認識できず刈られてマルチにしていた草にも焦点が当たり、実際に口にすれば、何と味の豊かなことか。その時、畑にある世界は更に深みを増し、野菜が生命力を放っている畑から野菜と野草、畑全体の土と植物が生命力を放つ様な全体性を伴ったものに一瞬にして変わる感覚を覚えた。
ここで思うのは、ただ食べれる野草を教えられることによる喜びではない。
彼女がこれまで実際に「摘み菜」というものを彼女自身の生活の基本にし、更に言えば、彼女自身が実際に「摘み菜」というものを生きてきた感覚を垣間みさせてもらえる、新しい次元の発見という喜びだったということ。

彼女と「現場」で会うのは今回が2回目だった。1回目は春のまだ手を付けられていない淡河での実習コース講師ミーティング。以前のブログにも書いたと思うが、その時も淡河に着くや否や畑の畦や周辺を歩き、帰って来た時には摘み菜ブーケを持ち帰られた。今回も講習前の淡河に着いた時、翌日の朝の淡河、二日目の実習地である弓削牧場に着いた時、彼女の姿が消え、帰って来た時に手にしていたのはやはり摘み菜のブーケ。
彼女は摘み菜を生きている。彼女が摘み菜の一部であり、摘み菜が彼女の全体でもある。
そういう姿勢に私たちはハッとさせられる。そして、その基本をなすものは、自分の感覚に従う、ということだと思う。どこかの情報を生きるのではなく、それを基にしたものに自分の感覚と行動を落とし込む。自分が間違うこともあるし、情報が間違っていることも多々ある。

淡河の母屋周辺、摘んだ野草をそれぞれがつけた味付けで頂いた。皆で調理をしている時、これまででいちばん台所が息づき生命力を放っている力強さと生き生きした潤いを感じ、とても安心した気持ちになった。
彼女が垣間みさせてくれ、僕たちに喜びを与えてくれたのは、自分が信じ自分の感覚にしたがい、それを実際に誠実に生きていることの存在の在り方だと思う。そういうものこそが、触れるものを新たな次元にいざない、更なる可能性を感じさせるものになるのだろうな、と思う。 (ken)
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by perculkansai_ougo | 2010-10-25 00:42 | Comments(0)

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by パーマカルチャー関西